[ 2012.05.27 ]未分類
土曜日、建築家の菅家克子さんに誘われて、「NPO近畿水の塾」が企画した末村祐子さんの報告会に行ってきた。末村さんは東北の震災の発生から1ヶ月後に大阪から岩手県に入り、民間人でありながらその手腕を買われ、現在、大槌町役場の復興局特別顧問として働かれている。まだ40台半ばの若さで。ご主人を大阪に残して。
末村さんは大学卒業後、一般企業に就職した後、留学したカナダで、当時まだ日本ではあまり知られていなかったNPOやNGOの活動に出会う。帰国後、本を買い込んで国内事情を調べ、国際協力関係のNGOに入る。その翌年に阪神淡路大震災が発生。NGOの立場で復興支援事業に尽力し、1996年の国連人間居住会議(ハビタットII)NGOフォーラムに参加する。現場主義の実績が高く評価され、2005年以降は民間人として、行政に登用され、政策立案や行政改革に取り組んできた。
実は昨日まで、末村さんがこういう経歴の方だとは知らなかった。まったく、2度も一緒に飲んでいたにも関わらずだ。忌野清志郎が亡くなった年の夏、菅家さんとの打ち合わせの帰りがけに、NHKで放映された追悼番組を見忘れたという話をしたら、録画があるという。話の成り行きで、末村さんの家で見ようということになり、所千夏さんと3人でお邪魔した。それが出会いだった。おいしい晩御飯をよばれながら、ごま豆腐の作り方を教わり、猫を抱きながら、その録画を3回繰り返して見た。2度目は天神祭り。2009年の夏はこんなにのどかだった。
手元のメモをもとに、末村さんの報告を抜粋して再現する。
『大槌町を選んだのは、町の人口に対して被災した人の割合が一番大きかったことと、町長、副町長をはじめ、経験豊富な役場の職員がたくさん亡くなり、役場機能が停止状態だったから。役場に入ったのは発災から4ヵ月後。レスキュー期が終わり、復旧期から復興期に入る頃。16,000人の人口が現在は10,000人を切る。2,100戸強の仮設住宅に、4,000人が暮らしている。民間の建物の「みなし仮設」に住む人を入れると、人口の半数が仮設住宅で暮らしていることになる。』
『仮設住宅の土地探しに苦労したが、民間の農地をあてた。いくつかのプレハブメーカがてんでばらばらの規格で建てた仮設住宅は、寒冷地仕様でなかったため、冬季に水道管が破裂し、電気も止まった。苦情の電話に対応するにも、規格が違うので、この家では「青のバルブ」を廻す指示をしないといけないが、別の家では色が違う。明日はどんな仕事が待っているかわからない。そんな毎日だ。』 続く。