『「プガジャ」の時代』 (その1)|トーチカ通信|桃李舎一級建築事務所

トーチカ通信

[ 2012.06.25 ]本・映画・演劇・美術・音楽

『「プガジャ」の時代』 (その1)

この本は府立文化情報センターが主催する「新なにわ塾」の第1弾の企画をまとめたものである。新なにわ塾は、「大阪の足跡」をコンセプトに、大阪が輝いていた最後の時代といわれる大正から昭和の時代に焦点をあて、大阪のDNAを後世にきちんと伝えるための活動である。編著者の一人の音田昌子さんに教えてもらった。

本の帯にある文章をそのまま掲載する。

『かつて大阪にプガジャという雑誌があった。日本で最初の情報誌といわれ、風評なのでその真偽のほどは定かではないが、70年代には朝日ジャーナル、スイングジャーナルと並んで、三大ジャーナル誌ともいわれたという。71年に創刊され、87年に、僕らがつくっていた『ぷがじゃ』(当時の誌名)は終わった。70年代のサブ・カルチャーをリードした雑誌であり、そこには大阪が一番おもしろかった時代の息吹が確かにあった。・・・「はじめに」より』

まだ「情報誌」という言葉がなかった頃に、プガジャはイベント、映画、演劇、コンサートを伝えてくれる唯一の雑誌であった。私が読み始めたのは高校生の時なので、70年代の半ばである。B6版の時代を知っている世代である。巻末に、創刊号から終刊までの目次がすべてまとめられているので目を通したが、青春時代に受けたサブ・カルチャーの洗礼の歴史がよくわかった。創刊号の特集はなんと「劇団黒テント」である。いしいひさいちや中島らもも、ここからブレイクした。

77年にLmagazine(通称Lマガ)が出たが、プガジャのコアなファンは流れていかなかった。プガジャの場合は、情報を単に載せるだけではなくて、雑誌の作り手自身が興味を持てるものをプッシュしようとか、若者に伝えたいという想いが全面に現れていて、私たちはプガジャが教えてくれるものを見たくて、雑誌を買っていたと思う。読者も反応を返していて、雑誌作りに参加している感じがあった。一方、Lマガは第1次情報だけをスマートに載せていて、プガジャのアングラな怪しい空気は無かった。

「ぴあ」が出るのは72年。そして85年に「ぴあ関西版」が大阪にやってきた。ぴあは対極の東京カラーで、商業ベースに乗った明るさが当時は軽薄な感じがしたが、いつのまにか、新しい読者はぴあに流れていった。情報オンリーの軽さが受けたのは、メッセージ性が必要ではない時代になってきていたということだったのだろう。周りを見渡したときに、プガジャ派、Lマガ派、ぴあ派の文化性は確かに違っていたと思う。