水俣への旅(その4)|トーチカ通信|桃李舎一級建築事務所

トーチカ通信

[ 2013.04.06 ]森・里・海

水俣への旅(その4)

熊本空港に着いたのは3月9日(土)の朝だった。その4日前に、熊本県では、中国の大気汚染による「PM2.5」が初めて国の暫定指針値を上回り、外出を控える注意喚起が行われていた。その日は黄砂も飛来していて、街がぼんやりと霞み、喉が弱い私は、マスクをしていても咳が出てつらかった。

翌朝、友人は東京から朝の第一便で到着し、空港からレンタカーで私をピックアップした。九州自動車道を南下して芦北の交流センターを一緒に見学し、水俣へ向かう。朝から細い雨が降っていた。

車の中には、友人のリクエストで出張前夜に作ったCDから音楽が流れていた。南九州の陽光をイメージしてパソコンから集めた曲は、雨でグレーに煙る風景に似合わなかったが、小さな音量で聴いていた。しばらくすると、雲間から陽が差してきた。熊本に着いて初めて見た春らしい光だった。「『ひねもすのたりのたりかな』の前の句って、『春の海』だったっけ?」とハンドルを握る友人が言う。

最初に車を降りたのは、チッソ(株)の工場横の百間排水口だった。チッソは2011年に事業部門をJNC(株)に移管していた。アルファベットの看板をちらっと眺めて、水俣病の「爆心地」といわれる排水口に向かう。いつの間にか太陽が雲に覆われてまた雨の気配がしていた。

チッソ水俣工場は、1932年~1965年まで、この排水路からメチル水銀が混じった工場排水を流して水俣湾を汚染した。排出された水銀量は70t~150t、あるいはそれ以上と言われている。汚染された魚を食べた猫は狂死し、ついに漁村の猫は死に絶えた。食物連鎖は人間に続き、水俣湾から不知火海の沿岸一帯に水俣病患者が発生した。

「百間の排水口からですな、原色の、黒や、赤や、青色の、何か油のごたる塊が、ざぶとんくらいの大きさになって、流れてくる」「あん頃の海の色の、何ちいえばよかろ、思い出しても気色悪か。何かこう、どろっとした海になっとった・・」

「魚どんが、海の底の砂や、岩角に突き当たってですね、わが体ば、ひっくり返し、ひっくり返ししよっとですよ。おかしな泳ぎ方ばするね、と思いよりました」

「(猫が)くりくり、くりくり舞うかと思うと、アレたちが、こう、酒に酔うたごつして千鳥足で歩くとですよ。だんだん舞うのがきつうなる。後にゃですね、ああた鼻の先で、鼻の先ばっかりで逆立ちせんばっかりして舞うとですよ。地ば鼻でこすって。それで、どれもこれも、鼻の先は、ちょっとむけとったですよアレたちは」
石牟礼道子「苦海浄土」より抜粋

工場排水に原因があることは、水俣病の発症が拡大した1956年~1957年に、既に猫を使った実験でわかっていたが、チッソはその後9年間も水銀を流し続けた。

「爆心地」だと示すものは上の看板と、小さなお地蔵さんだけである。恣意的に誘導するものが何も無いから、水を眺めながら、自分なりの向き合い方ができた。

大量殺戮の現場に立つ薄気味悪さと、死者への哀悼の気持ち、巨利を博したコンツェルンと無策な国家へのやるせない怒り。幾種類もの感情が浮かぶ中で、ずっと気になっていたのは、水路の水の汚さだった。

看板の解説によると、現在は浄化処理された工場廃水と家庭からの生活排水が流れ込んでいる。生活排水への対策が取られていないことが不思議だった。水質汚染の恐ろしさを知り尽くしているこの水俣で。私たちは車に戻って海に向かった。