水俣への旅 (その6)|トーチカ通信|桃李舎一級建築事務所

トーチカ通信

[ 2013.04.08 ]森・里・海

水俣への旅 (その6)

水俣病資料館に入ると、まず、水俣病についてまとめた15分のフィルムを見て下さいと言われた。私たち2人のために上映会が始まった。小学生の時に、白黒TVで、猫がくるくる狂ったように回わる映像を見て、とても怖かったのを覚えているので、少し緊張した。映像はいろいろな配慮がされていたが、子供が映る場面では喉の奥に熱い塊がこみ上げた。

今ならインターネットで何でも調べることができるが、この資料館には水俣の人が見て欲しいと思うものが展示されているはずなので、時間をかけて見たいと思っていた。でもここにそれを詳細に書き始めるといつまでもこの連載が終わらないので省略する。ただ、ここで書いておきたいのは、水俣病事件は今も終わっていないということである。

チッソの水俣工場には昭和天皇が昭和9年と24年に視察に訪れている。チッソに限ったことではないが、国策で操業していた企業はどこまで冷酷になれるのだろう。人や動物が無惨に死んでいくその原因が工場排水にあることを突き止めながら、データを隠蔽するだけでなく、地元の研究者の調査結果に反証を唱え、操業を止めなかった。そして国も操業停止命令を出さなかった。

終戦とともに湯堂の村に兵隊たちが帰ってくる。「娘たちはどんなにいそいそとうちふるえるようなはにかみを蔵して、生き返ってきた兵隊たちを、むかえたことだったろう」 さつきは、そんな娘たちのひとりだった。

「(さつきが)ギリギリ舞うとですばい。寝台の上で。手と足で天ばつかんで。背中で舞いますと。これが自分が産んだ娘じゃろかと思うようになりました。犬か猫の死にぎわのごたった」「目もみえん、耳もきこえん、ものもいいきらん、食べきらん。人間じゃなかごたる声で泣いて、はねくりかえります」      石牟礼道子『苦海浄土』より

魚を蛋白源とする漁村で病気は発生した。原因がわからなかった当初はたたりや奇病と言われた。病人が出た家は、雨戸を閉めて隠したのだという。遺伝が疑われて、差別もあり、都会に出た者も水俣出身とは言えなかったという話を聞いている。

1959年12月30日。チッソは原因が自社にある事実を隠して、患者と見舞金契約を結んだ。患者側には圧倒的に不利な契約だったが、正月を前にして生活の逼迫もあり調印した。死者30万円、成人は年10 万円、未成年者は年3万円という低さである。

第5条には水俣病の原因が将来「工場排水に起因することが決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わない」という文言が入った。さらに巧妙なのは、第3条に、見舞金の対象者は協議会が「認定」するという内容を入れたことである。このときから、厚生省による患者の認定作業が始まったのである。

「認定」という言葉の怖さを私たちは知っている。次に問題になるのは何を「水俣病」と定義するかである。それが争点になって現在も紛争が続いているのは、このときに始まった制度のせいである。

この認定申請を政府は2012年7月31日で締め切った。そして2013年4月30日を目処に、申請手続きを終了しようとしている。それに対して日本弁護士団は「被害者の切り捨てになる」として期限の撤回や延長を求めている。潜在的な被害者がいる限り、国は無期限で救済に努めるべきではないのか。なんとここは悲しい国なのだろう。

こうして書くのは、水俣病が公式に確認された1956年から現在までの出来事が、東電の原発事故に重なるからだ。原発事故の被害も「公害」である。国策、差別、保障、認定・・。過去に起こったことは繰り返される。だから今、水俣に学ばないといけないと思うのだ。