水俣への旅 (その7)|トーチカ通信|桃李舎一級建築事務所

トーチカ通信

[ 2013.04.12 ]森・里・海

水俣への旅 (その7)

もう一つ、見ておきたいものがあった。「水俣メモリアル」という慰霊碑である。4年前に、日経新聞の連載「私の履歴書」に磯崎新が登場したが、その中で、慰霊碑のデザインを決める国際コンペの審査員をした体験を語っていたのを覚えていたからだ。

打診があったとき磯崎氏は二つの注文をつけている。一つは、「モニュメント」という名称を「メモリアル」に変えること。それは、悲惨な歴史を刻むのに、戦勝を祝い、国威を誇示するために使われる名はふさわしくないから。もう一つは、作家の石牟礼道子さんとの共同審査としたいということ。

石牟礼さんは固辞された。そして彼は全責任を負う覚悟で、市民の支持を得ていた塔のような記念碑ではなく、ジュセッペ・バローネという無名のイタリアの建築家の作品を選んだ。

それは不知火の海を見下ろす丘の上に立っていた。四角いスチールのフレームが海を切り取るように立っている。近づくとフレームには埃で汚れたガラスがはまっていた。ガラス越しに見る海は、曇った眼鏡で見る景色のようにぼやけて、薄汚れて見えた。

「ガラスが無い方がいいのに」と言うと、友人は「水が流れるんじゃない?」という。なるほど、下に浅いプールがある。ガラスに水が流れていたら海がさめざめと泣いているように見えたのだろうか。水のフィルターにかかって揺らぐ海で、作者は何を見せようとしたのだろう。

しかし、節電のためか水は流れていなかった。漁村に囲まれた小さな海を弔う碑に、電気仕掛けの装置は似合わないよと思いながら、足元を見渡すと、ステンレスの球があたりに散らばっている。球は108個、煩悩の数だけあるという。

「日が暮れると、この球は光を反射して、漁火のように輝くことだろう。それは不知火海にただよっていた死者のたましいが「ひ」(火)となって「たま」(球)に宿ったかのように見えるのではないか。シンプルなこの案を見た時、民俗学者である折口信夫の言葉を思い浮かべ(た)」                                  磯崎新「私の履歴書」より

そのときは、何ということはなかったのに、大阪に戻って水俣の海を思い浮かべるとき、この球を思い出す。見たはずがないのに、漁火のようなオレンジの光を映して揺れている。その球の間を歩いていた友人の影も陽炎のように揺れている。その揺らぎが心に静かな波を立てて、私は身体の中に海を感じる。

イタリアの建築家が製作したオブジェが、不知火の民話的な海の記憶を呼び起こすことに成功している。改めて記事を読むと、彼はアドリア海をのぞむ丘の町ペスカーラの出身だということがわかった。建築の可能性を信じたいと思える体験であった。

カメラを持っていたのに、水俣ではほとんど写真を撮っていない。撮っていたはずなのにおかしいなと思って友人に聞くと、彼女も4枚しか撮ってないという。だからこの写真は磯崎さんの本から拝借した。

それから私たちは車に乗って、石牟礼さんに会うために熊本市内に向かった。