水俣への旅 (その8)|トーチカ通信|桃李舎一級建築事務所

トーチカ通信

[ 2013.04.13 ]森・里・海

水俣への旅 (その8)

熊本に向かう車の中は会話が少なかった。水俣で過ごした3時間を別々に反芻していたのだと思う。往きの続きで、南九州の陽光をイメージして作ったCDから、空気を読まない曲が流れていた。グロリア・エステファンがキレのあるバラードを歌っている。80年代のバブルに沸いた都会の空気がよみがえる。

都会で暮らす私たちがチッソから受けていた恩恵を思い浮かべてみた。当時のチッソの主要製品は塩化ビニルである。水俣病資料館の展示室にあった塩化ビニルでできた製品の数々・・ラップフィルム、ホース、長靴、水筒、ビニルレザー、カード、壁紙、床材。

ラップフィルムを初めて見たのは、小学生の時だった。関西で初めて出来たスーパーマーケットで、野菜やお肉がラップに包まれているのを見た。セルフサービスもレジも、何もかもが珍しく、レジのキーボードを叩いてみたくて仕方なかった。それでも私たちは家の近所の公設市場で買い物をしていた。籐の買い物籠を差し出すと、八百屋さんのおばちゃんが野菜をくるくるっと手早く新聞紙に包んで入れてくれた。その公設市場がスーパーに変わるために壊されたのはいくつの時だったのだろう。あのときにはっきりと、世の中が変わっていくときに悲しみが伴うことを知った。

高度成長期に私たちが便利な生活と引換えに失ったものや犠牲にしたものを、水俣病事件が教えてくれる。ここには、加害者VS被害者という単純な二項対立では捉ええられない複雑さがある。加害企業の社員として働く地元の人たちの立場、企業の立地によって恩恵をうける市民の立場、補償金によって生じる市民感情の複雑さ。一人一人に違う水俣病事件があるのだと思う。原発事故で多くの人の、それぞれの人生が変わったように。

科学技術の研究成果をもとに産業が発展する過程では、それが急速であるほど、ないがしろにされた「安全」のために大きな犠牲が伴う。犠牲者はいつも、中央から遠く、社会的、政治的に弱い人たちである。

「問題が長期化したのは貧しい漁村だったから・・」と言いかけると、友人は「換金するための魚を捕っていなかったという意味ではね」と、「貧しさ」という言葉に反応した。確かにそうだ。目の前の海で、日々食べるだけの魚を捕って暮らす人々にとって「舟の上はほんによかった」 「これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい」 そして共同体には支えあう濃密な人間関係があった。

自給自足の生活に大きなお金は要らないが、基盤になるその自然が奪われたときに、本当の貧しさが襲いかかる。私たちの今の便利過ぎる暮らしのために、今も忍耐を強いている人たちがいる。

ビーチ・ボーイズの”God Only Knows”が流れていた。ブライアン・ウィルソンが「君のいない僕の人生がどんなものか、それは神さましか知らない」と歌っている。

曲を聴きながらまた沈黙が続いていた。「石牟礼さんに会ったら何を聞こかな」とつぶやくと、ハンドルにおぶさるように「私も今、同じこと言おうとした」と友人が呻いた。私たちはもう熊本市内に入っていた。