往復書簡 「ハンナ・アーレント」を観て (その1)|トーチカ通信|桃李舎一級建築事務所|大阪の建築構造設計事務所

トーチカ通信

[ 2014.02.15 ]本・映画・演劇・美術・音楽

往復書簡 「ハンナ・アーレント」を観て (その1)

福島に行った先週末、前後して2人の方から長文のメールを戴いた。どちらも映画「ハンナ・アーレント」を観てのお便りだった。他にもトーチカ通信を読んで、観に行って下さった方がおられるので抜粋して紹介したい。

まずは、東京の友人のメールから。アーレントの寄稿を掲載した雑誌『ニューヨーカー』の編集長、ウイリアム・ショーンのことを教えてくれた。メールは、昨年、水俣に行った春、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が私たちの間で話題になったので、そこから始まる。以下、メールの抜粋である。

『アイヒマン裁判は1961年、アーレントの寄稿は1963年、「沈黙の春」の発表は1962年、ほぼ同時期でした。さらに驚いたのは「沈黙の春」もニューヨーカーでの発表で、同じショーン編集長が手がけたものだったのです。アーレントもカーソンも、発表直後は賛否両論の渦に巻き込まれ、もみくちゃにされましたが、2014年の現在は彼女たちの主張のまっとうさが定着している点も共通しています。

ショーン編集長に、雑誌『「東京人』がインタビューした記事を見つけました。
http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/mailmag/375.html

どんな紙面にせよ、賛否とりまぜて大きな反応があることは雑誌の売り上げに直接結びつくわけで、彼の態度にはメディアのセンセーショナリズムの一翼を担う怖さもありますが、根底には「個人の考えをつまびらかにする場を丁寧に準備する」という(編集者としての)プロフェッショナルの意識が流れていると思います。ネットメディアの大きな違いは、こういうプロの眼をスクリーニングしないダダ漏れ状態、ということなのでしょう。日本のマスメディアが奇妙なプロ意識に自縄自縛にとらわれて御用報道に堕していることは論外として。

もうひとつ、上野千鶴子の「ナショナリズムとジェンダー」を読み返していて興味深い記述を見つけました。ホロコーストの歴史が現在のような形をとるには紆余曲折があった、とし、アイヒマン裁判で証言台に立った人たちが、それまで語ることさえできなかった過去、言葉にできなかった記憶、を語ることによって初めて(ホロコースト)が大きな衝撃として、「現実」として浮かび上がってきた、と解説していました。

この記述を知ることによって、映画に描かれた当時の「空気」がようやくわかった気がします。(裁判は1961年。)たかだか50~60年ぐらい前の話で、文献や映像がたくさん残っていても、こういう「空気」感というのは伝わらないものですね。その時代に生きていた人たちにとって当たり前すぎることはむしろスルーされ、噛んで含めるように意識的に次の世代へ伝えようとする努力が働きにくくなるのかもしれません。』