往復書簡 「ハンナ・アーレント」を観て (その2)|トーチカ通信|桃李舎一級建築事務所|大阪の建築構造設計事務所

トーチカ通信

[ 2014.02.17 ]本・映画・演劇・美術・音楽

往復書簡 「ハンナ・アーレント」を観て (その2)

東京の友人へ

この週末、東京は大雪で大変だったでしょう。大丈夫ですか?教えてもらったニューヨーカーのショーン編集長のインタビュー記事、とても面白く読みました。ニューヨーカーは情報誌だと思っていましたが、月刊文芸誌だったのですね。

ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』もそうでしたか。驚きました。調べてみると、掲載されたのは原爆投下から1年後、1946年8月です。The New YorkerのHPで当時の紙面を読むことができるのですよ。広島のルポは、連載4回分だったそうですが、当時はまだ編集者だったショーンが編集長のハロルド・ロスに依頼し、インパクトが薄れないよう、雑誌の全紙面を使って1回で掲載したそうです。当然、大反響を巻き起こします。

メールで、時代の空気感のことを書いていましたね。この『ヒロシマ』が出たときの空気感を調べてみました。原爆報道についての著書がある繁澤敦子さんの論文を見つけました。当時のアメリカにとって、日本人は「狂信的で残酷な敵」だったけれど、このルポが、大惨事に直面した人間を浮かびあがらせ、自分たちと同じ喜怒哀楽をもった普通の人々であったことを知らしめたとありました。苦境の中で懸命に生き抜く姿は共感を読んで、10カ国以上の言語に訳され、世界各国から被災者救援の物資や募金が集まったのだそうです。

4万部が1時間で売り切れ、アインシュタインが1000部を注文するという伝説は尽きませんが、1946年です。すごい度胸ですね。原爆被害を少しでも小さく見せたい政府や軍からの圧力は当然あったはずだし、市民の間に反核の気運が生まれるのを嫌う軍事産業からの妨害もあったでしょう。アーレントのときもそうですが、これだけの騒動を巻き起こしながら、今も存続しているニューヨーカーの気概に感動します。

桃李舎を立ち上げる直前の1988年4月に、「DAYS JAPAN」という雑誌が創刊されました。創刊号を買いましたが衝撃的でした。「4番目の恐怖」という特集を組み、チェルノブイリ、スリーマイル、ウインズケール、六ヶ所村をカラー写真で載せて、放射性物質による汚染を警告していました。反原発運動が一番盛り上がった時だと思います。ところが約1年で廃刊に追い込まれ、運動もあっと言う間に世の中から消えました。気付くとそうなっていました。何か大きな操作があったのです。これが日本です。今のNHKには国営放送の矜持も倫理観もありません。他のマスコミも同じです。日本はどんどん悪い方向に進んでいて、もう行き着くところまでいくのかもしれません。

ネットメディアのことも書いていましたね。「プロの眼をスクリーニングしないダダ漏れ状態」というのは、ドキッとしました。それはそうですが、このネット上のダダ漏れの言葉は、次の世代に確実にこの時代の空気感を伝えるはずです。ところでブログですが、私はこのツールが気に入っています。編集長である私のフィルターはかかりますが、こうして双方向のコミュニケーションもできるしね。メール掲載の了解、ありがとう。では長くなるのでここまでにします。続きはまた東京で。