6年目の3月11日を前に|トーチカ通信|桃李舎一級建築事務所

トーチカ通信

[ 2017.03.09 ]原発・福島・東北

6年目の3月11日を前に

今日の昼下がり、鹿児島から北上する新幹線の窓辺に座っていた。大阪とは明らかに違うまぶしい日差しに、南九州はもう春だな・・と思いながら、4年前、水俣に向かう車の外に溢れていた陽光を思い出していた。車内放送で「次は新水俣。オレンジ鉄道への乗り換えは・・」というアナウンスが流れると、さらに細部の思い出まで鮮明に蘇ってきた。

それは水俣の海を見て、石牟礼道子さんに会いに行くという旅だった。一緒に行った友人に、「あのときの空気感まで蘇り、今思い返しても特別な旅だったと思います」というメールを送った。

家に帰って当時のトーチカ通信を読み返した。それは「水俣への旅」というタイトルで12回にもわたる連載になっていた。あっと驚いたのは、その旅は2013年の3月9日~10日なので、ちょうど4年前の同じ日だったことだ。そういえばあの日もJSCA賞の現地審査にからめた旅でシチュエーションも同じ。太陽の位置も光の強さも同じはずだ。

「水俣への旅」(その1)http://tochikaima.exblog.jp/17467487/

当時のブログを読み始めると、自分で書いた文章なのにほとんど忘れていて、ぐいぐい引き込まれて12回分を一気に読んだ。よくこんなに長い文章を書いたものだ。それにしてもなんてあの当時は感じやすかったのだろう。

当時ブログを書いているときは、一つの体験を編集して文章化することで、体験が丁寧に租借され、脳の記憶のホルダーにアドレスで振り分けるようにしまわれていくのを感じていた。ブログを書くことを日常にすると脳のOSが変わるという表現を使ったこともある。「オレンジ鉄道」という音の響きで開封されて溢れ出したのは、確かに「水俣」というホルダーにしまわれた記憶だった。

水俣の旅は東北の震災から2年目の3月11日の前日で、水俣と福島を重ねて見ていた。あの震災から今年で6年になる。東北の震災は津波被害の大きさと原発事故という特殊さで、この日を境に「さぁこれからどう生きる?」と大きな問いを突きつけた。問われた私は息をつめて毎日を生きていた。私的な事情で大きな喪失感も抱えていたが、ここをどう生きるかで真価が問われると自分を奮い立たせて、世界に向き合っていた。

「生きる」とか「世界」とか、大げさな言葉遣いだけれど実際にそうだった。この世界の成り立ちを読み解きたいと思ったし、自分にできることは何でもやってみようと思った。その日々がこのトーチカ通信につづられている。

あの当時の息をつめるような緊張感は今はない。でも食べたもので、体が分子レベルで入れ替わるように、震災後の日々の過ごし方で、私の中の中で入れ替わって新しくされたものが確かにある。ブログでこうして書いていることもそうだ。

南九州の陽光が4年前に連れ戻し、「今までと同じ生き方はできない」と立ちつくした震災当時の想いの中にいる。