6月7日 大阪大空襲の日|トーチカ通信|桃李舎一級建築事務所|大阪の建築構造設計事務所

トーチカ通信

[ 2012.06.09 ]トーチカのイベント

6月7日 大阪大空襲の日

1945年6月7日は第3回大阪大空襲で、私たちの町が焼かれた日である。6月7日、佐藤ふみ子さんの呼びかけで、戦前からここ東野田町4丁目におられたた方がトーチカに集まられた。12人の参加者は、夫婦が3組、3人が88才で、平均年齢は80歳をゆうに超える。夕方から集まって、お弁当やおかずやビールなど、分担しててきぱきと準備された。今回、私は場所を提供しただけだ。末席でお話を聞かせてもらった。

民芸展でお世話になった平田さんが、当日の貴重な写真を持って来られた。私が子供の頃まで、すぐ隣に阪大の工学部があった。その屋上で空から降ってくる焼夷弾を撮っておられたのだ。焼け野原の写真もあった。「自分の家が燃え落ちるのを見るのは悲しかったねぇ。機銃掃射を受けて必死で鉄道の高架下に逃げ込んだときは、これで死ぬなと思た」

「戦争に行くのは嫌やった」という山下さんは19才で入隊された。戦争末期、繰り上がっての編入だったそうだ。和歌山県で上陸戦に備え、爆弾を抱えて敵の戦車に飛び込む訓練をされていた。戦車の底は鉄板が薄いから下にもぐって爆発させるのだそうだ。死ぬ覚悟はできてたから、空襲を怖いと思わなかったとおっしゃった。

父は、「木造の家ばっかりやったから、みんなきれいに灰になった。見渡す限りの焼け野原に、音がなかった」と言った。東北の津波のあとの風景がちらっと頭を横切った。音のない風景・・。

大倉さんのご主人は当時6年生。神戸で空襲に会われた。B29の編隊が飛んできた。大倉山の高射砲陣地からの砲撃で、1機が墜落したのを見たとおっしゃった。

父が焼ける前の町内の地図を描いていたので、コピーして配った。みなさんの記憶を寄せ集めると、空白の敷地がどんどん見知らぬ名前で埋まっていく。セピア色の写真で見たことのある町が、地図の上に立ち上がってくる。みなさんの頭の中では、亡くなった多くの人のなつかしい姿が、蘇っていたことだろう。

佐藤さんが、「みなさん、このへんで、今の話をしましょうか。どうです?今、幸せですか?」とおっしゃった。ここには書き尽くせないが、しみじみとしたいい話が続いた。そして、口々に、こうやって集まって喋れることが嬉しいと言って下さった。これを機に、もっと気軽に集まろうと話しておられる。どうぞ、どうぞ、そのためにトーチカを作ったのです。

私は外から眺めるトーチカが好きだ。見上げた空に月が浮かんでいる。