[ 2013.05.06 ]未分類
5月3日は高校の学年全体の同窓会だった。5年に1回開催されていたが、今年は欠席して事務所にいた。ホテルの優雅な立食パーティとその後のラウンジでの2次会。それが今いるところからとても遠かった。にぎやかな会場から、代わる代わる「出て来いよ」と電話をもらって、悪いと思ったけど「ごめん」で済ませてしまった。
その夜は会いたい人がいた。南相馬の「まち家具プロジェクト」でお世話になったMさんである。あらためて、報告とお礼を言いたかったが、それは口実で、ただMさんと飲みたかった。昼間、なかなか電話が通じなかったが、夕方に繋がって「7時に大正駅に行きます」ということになった。
ハイボールで乾杯した後、お昼はお出かけでしたか?と聞くと、西成の三角公園でコンサートがあったからという。私はふふっと笑った。Mさんはずっと変わらない。だから今夜会いたかった。三角公園は釜ヶ崎という労働者の町のシンボル的な公園である。
26年前、まだ私が勤めていたときである。アジアから日本に勉強に来る留学生のための安い下宿屋さんを、西成の労働者の人たちと生野区の保母さんが一緒に作る仕事の相談を受けた。その仕事が私の独立のきっかけになるのだが、その仕事の中心にいたのがMさんだった。
水俣に行った話をして、当時、何かしました?と聞いた。Mさんは1948年生まれである。大学生のときは、まだ水俣病は市民運動にはなってなかったから、ドキュメンタリ映画の自主上映を企画したと言われた。そういえば、地下発電所にゲストで来てもらったシネヌーヴォの代表の景山さんも、始まりは、公害の記録映画の上映会だと言っていた。
そしてMさんは、チッソの株を買ったと言った。「えっ」と言うと、一人一株運動で、2000円で1株買って、株主総会に行ったというのだ。「あの頃は、ちょっと声かけたら学生100人はすぐ集まった」「壇上の議長をわぁーっと囲んで、滅茶苦茶にしたけど、どの新聞も、総会は発議→審議→決議とスムースに行われたとしか書いてなかった」Mさんの専門は工業化学だから、公害にはことさら敏感だった。
学生運動は高校時代に始まっていて、大阪のそれは全国のさきがけだった。何がきっかけだったのかを聞くと「日韓条約」ということだった。
いつか聞いてみたいと思っていたので尋ねてみた。どこに入ってられたのですか?
「東京プリズン」短い返事が返ってきた。1969年の安田講堂の攻防で拘束されて実刑。保釈されるまで1年間。