[ 2018.01.14 ]森・里・海
琉球大学での講演のタイトルは「30年前、私を変えた沖縄の海」とした。1986年だったと思う。まだ川崎建築構造研究所の所員だった私は沖縄のリゾートホテルの現場監理で沖縄にいた。バブル期のさなかで、水中ディスコがある高層の滞在型ホテルである。
20代の半ばで1週間の出張が嬉しく、鞄にはビキニを忍ばせていた。飛行機が空港に着陸するときに見た海が白い砂浜に縁取られたエメラルドグリーンで、これが沖縄かと息を飲んだ感動は今も覚えている。しかし路線バスで本島を北上するうちに、米軍基地の大きさに衝撃を受け、ラジオから流れるニュースで米兵が起こす事件を聞くうちに、私は沖縄のことを何も知らないことに気づいた。
現場事務所に着くと、壁には建設前ののどかな海岸の写真が架かっていた。それまでは地元の子どもが裸で泳いでいた海岸が囲われてプライベートビーチとなり、これから建つホテルが外資系ゆえに利益を沖縄にもたらさないという話も聞いた。これは建てるべき建築ではないのではないかという思いに囚われてしまった。
その頃、事務所では大飯原発の仕事もしていて、現場で反対運動を見ていた。構造設計という仕事は、プロジェクトが成立してから依頼がくる。建てることが前提で、建てることの是非を問う余地はない。20代でまだ自分探しをしていた私は、構造設計が自分の仕事ではないのではないかと思い詰め、しばらくして事務所を退職した。琉球大学での講演は、進路に悩む学生のために、私にとって沖縄の仕事がターニングポイントになったこと、でも再び構造の世界に戻ってきたというところから話を始めたのである。
そして今回、私はもう一度、32年前と同じ道をタクシーで北上していた。2日目のバーベキューは午後2時からだったので、朝一番に青の洞窟でシュノーケリングをしたかったからだ。運転手さんに32年前に、恩納村のホテルの仕事で来たときにこの道を通ったと話すと、32年前ですかと驚いて「すっかり変わったでしょう?」と、ガイドをしてくれた。確かに街の印象は変わっていた。モノレールが走っていて、基地は昔より縮小されていた。変換された土地は公共施設、学校、リゾート施設、集合住宅が建っていて、32年前より街全体が小ぎれいになっていた。
普天間基地は街の中心部にあり、住宅や学校や幼稚園がすぐ隣に密集して建っている。「今日はオスプレイは飛んでませんが、あれは音が違います」と運転手さん。爆音はさまじいという。事故も起きているから、辺野古へ移転してほしいという意見だった。もともとは基地で働いていたそうで、待遇は公務員だったので給料もよかったらしい。
昔仕事をしたホテルの名前を聞かれたので、「ラマダルネッサンスホテル」というと、今は名前が変わっていた。運転手さんの話では、あのホテルは外資系のリゾートホテルのはしりで、あのホテルの成功で西海岸のリゾート地としてのグレードが上がり、大型リゾートホテルがどんどん建ち始めた。観光客が増え、雇用も増えて、沖縄が経済的に豊かになり始めた。「いい仕事をされましたね」と言われたのだ。