[ 2012.02.02 ]本・映画・演劇・美術・音楽
テオ・アンゲロプロスが事故で亡くなったという記事を新聞で見た日から、ふと一人になると彼の映画の映像を思い浮かべている。霧、雨粒、雨に濡れた道路、重く垂れ込める雲、雪に覆われた黒い大地、重いコートを着た黒い群像、銃声・・。この一週間は特に寒かったので、映画の沈黙の中で流れていた空気までいっしょに立ち現れて、ギリシャに囚われたように過ごしていた。そう、バルカン半島の近代史は彼の映画で勉強した。
そうしていたら、30日の日経新聞の朝刊に、池澤夏樹が追悼文を寄せていた。読んで、そうだったのか、知らなかったと、思ったのは、彼が全ての映画の字幕を作っていたということだ。ギリシャ語は語尾変化が多様な分だけ省略が可能で、短いセンテンスのうちにおそろしくたくさんのことが盛り込める。したがって、長い沈黙の中で、ぽつりと発せられる台詞に字幕をつけるのは短歌か俳句を作るようだと書いていた。
池澤夏樹の本は読んだことがなかった。気になりだしたのは、昨年の3月11日以降である。何気なく読み始めた新聞のコラムを、いつのまにか吸い寄せられるように読んでいた。自分の中の言葉にならない想いを、言葉にして見せてくれた気がした。しばらくすると、また彼のコラムが載り、それが「終わりと始まり」という連載であることに気づいた。毎回、同じような思いをした。いつもより少し遅く桜が咲いた昨年の春は、どこか空疎な春だった。ああ、こんなときにも桜が咲くんだなと、少し不思議な感覚を覚えたとき、彼がこの詩を紹介していた。
またやって来たからといって、春を恨んだりしない
・・・略
わかっている わたしがいくら悲しくても
そのせいで緑の萌えるのが止まったりしないと
その彼が、アンゲロプロスの字幕を作っていたのだ。今、ものすごく観たくなっているのだが、DVDが手に入らないので、どこかのミニシアターで追悼上映されるのを待っている。