トーチカができるまでのこと (その7)|トーチカ通信|桃李舎一級建築事務所

トーチカ通信

[ 2012.03.11 ]トーチカができるまでのこと

トーチカができるまでのこと (その7)

2011年3月11日の朝、私はトーチカとモータープールの改修を同時に考えながら、歌を口ずさんでいた。前夜遅くまで仕事をしているときに、ふと思い出して、Youtubeで検索して見つけたケンとメリーの「愛と風のように」である。1972年に日産スカイラインのCMで流れていたBuzzの名曲だ。あの日の、そんな些細なことをどうして覚えているかというと、友人と「この歌を覚えてる?」「よく覚えてる」というメールのやりとりをしたからだ。

トーチカとモータープールの小さな村は、大げさな言い方をすれば、小さなユートピアの建設であり、それが70年代のピースフルな気分をふと蘇らせたのだろう。あの穏やかで美しい朝を、震災後、何度も思い出した。今となれば夢のようにやさしい記憶である。

午後、大地震が発生し、ニュースで津波の映像を見た。翌日から、原発事故の刻々と変わる様相をTVとラジオで固唾を呑んで見守った。

東北が絶望的な状況の中、原発被害で計画停電を強いられた東京も危機的な状況にあった。私たち大阪の人間は、東日本のバックアップになるべく、役に立たないかもしれないけど節電をし、水を買わず、いつにも増して働いていた。まわりの子供たちも何かを感じて、よく勉強していたと思う。募金や支援物資の提供以外に、自分がここで何ができるかを考えたとき、トーチカとモータープールの小さな村でやろうとしていたことが、私なりの震災対応だと思えた。計画の軌道修正の必要はなかった。逆に、予言的でもあり、方向性は間違っていないと確信がもてた。

「愛と風のように」の歌もまた予言的だったと思う。あの絶望の中で、私たちは、自分のことより他人(ひと)のことを考えていた。今生きてることが喜びであり、心の底からいい人間になりたいと思った。不自由な暮らしも厭わず節電し、原発はいずれこの地上から無くなる日が来るだろうと思った。多くの人たちの犠牲の上で、悔い改め、日本はいい国に変わるかもしれないと本気で思った。一種の震災ユートピアだ。

残念ながら、震災後、大阪の街に確かにあった連帯の空気はもうほとんど消えている。でもあの春から夏にかけて作ったトーチカとモータープールの二つの場所にはあのときの気分がまだ残っている。完成までのプロセスをこうして綴るのは、作りながら考えたことを忘れたくないからだ。安易な方向に流されずに暮らしていくために私自身に必要と思うからだ。