[ 2014.05.30 ]未分類
先月、4月3日に母が食卓で眠るように息を引き取った。心筋梗塞だった。特に病気だったわけではないので、母の死は全くの不意打ちだった。1分前まで笑っていて、スイッチが切れるように、こんなにもあっけなく人は死ぬものなのかと、今も醒めない夢の中にいる気がするときがある。
父の希望で、自宅から、キリスト教式の前夜式と葬儀で母を送った。突然、家族を奪われた立場に置かれ、津波や事故で同じ思いをされた人の痛みが身にしみてわかったと思ったが、母は綺麗な顔のまま、たくさんの花に囲まれて送ることができたので、遺体の確認がままならなかった方々の苦しみは、とてもこんなものではないだろう。
五十も半ばというのに、自分の中にまだこんな見知らぬ感情があるとは思わなかった。身体の半分が抜け落ちたような頼りない喪失感。突然こみ上げる思慕の情。こんなことならああすればよかった、こんなことも聞いておけばよかったと、後悔ばかりが残る。
そして、そんなときに、身にしむ人の優しさや思いやりがある。今してもらっているようなことを、私は今まで人にしてきただろうかと、自分勝手な我が半生を振り返って、恥ずかしい。人は多くの体験を通して少しずつものの道理がわかり、少しは賢くなったと思ったところで、死んでいくのだろう。「のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり」である。
私は母に、家事だけでなく、スタッフの夜食やバイトの学生の食事など、事務所の福利厚生面を支えてもらっていた。トーチカで大勢の人が集まるときは、食事の準備も手伝ってもらった。失ってその有りがたみを痛いほど感じている。
突然、父と二人の暮らしになったので、これまでほとんどやってこなかった家事をすることになった。しょげかえっている父と夕食を一緒にとるために、生活を朝型に変えた。事後処理をしながら、家のことと仕事をするだけで精一杯だったが、妹達やスタッフ、友人、隣人の助けもあり、ようやくこうして書く気持ちの余裕ができてきた。
母が死んで、テレビを全く見なくなったが、最近、新聞はまともに読むようになった。少し前まで、新聞の見出しを見ては、陽水の「傘がない」という歌を思い出した。
♪テレビでは 我が国の将来の問題を 誰かが 深刻な顔をして喋ってる だけども問題は 今日の雨 傘がない♪
あのフレーズである。集団的自衛権も原発も、放っておけないけれど、今の私の問題は、この小さな私生活をどう守るかなんだという状況だった。でも、そろそろ、外の世界に出て行かないといけない。無理のないペースでこのブログを再開しようと思う。
ブログの更新がないために、多くの方にご心配をおかけしました。知らないところで読んで下さっている方がおられることにも気づかされました。ありがとうございます。
母のことを知って下さっている方にはお願いがあります。どうかひととき、思い出して下さいますか。そして、それ以上のお心遣いはどうかありませんように。その場で、あの世で安らかにいることをお祈り下さるなら、私はとても嬉しいです。